〒450-8505 名古屋市中村区名駅1-2-1 名鉄百貨店[本館]10階 052-585-7811

名鉄ホール

|●名鉄ホールの歴史|公演年鑑(S30年代〜S40年〜S50年〜S60年〜H元年〜H11年〜H20年〜)|

ホールのご案内

名鉄ホールの歴史

昭和32年7月31日、名鉄百貨店10Fに四億五千万円という、通常の劇場としてはとうてい採算が成り立たない程の当時としては巨額の工費を投じ、百貨店の8〜10階を吹き抜けにした固定席926席の劇場が開館しました。当初は興行を行う劇場としてよりも、名鉄グループの象徴として、株主総会や関連するいろいろな行事、貸ホールの会場を目的として作られた背景がありました。

舞台・場内は地層階に走る名鉄電車の振動を拾うのを避ける為、ゴムのクッションを入れた浮き構造になっております。場内の壁面は音響学権威東北大学二村教授設計によるもので、音の反響がとても良く場内照明は日本初の蛍光灯が調光出来る劇場でした。間口約14m(8間)、奥行き13m(7間)、高さ約8.9m(27尺)のプロセニアムアーチ(額縁)に直径約12m(6間)の回り舞台と深さ1.3mの3つのせりを配し、客席はワンスロープ構造になっており、ロビーには、故杉本健吉画伯の壁画を配しております。またエントランスの床には化石があり、夏休みの自由研究などで訪れる、ファミリーの姿も見受けられます。

開館記念行事が行われた後、翌8月1日から天津乙女らの宝塚歌劇でのこけら落とし公演が行われました。
その後数年は1週間程度の短い公演や舞踊の会、映画の試写会などの貸館それに名古屋鉄道(株)の株主総会などに利用されていましたが、名鉄ホールの立地条件、劇場の規模(ワンスロープ・客席数)などを考え合わせ、「歌舞伎では縁遠い、新劇では堅苦しい、さりとて歌謡曲でもあるまい」といった広範な客層の開拓を前提に菊田一夫氏に依頼、芸術座で旗揚げされた東宝現代劇をはじめて名古屋に移入して、いわゆる中間演劇による興行形態の緒端を作ったのが、昭和36年4月に上演された「がしんたれ」でした。
以来、宝塚歌劇と共に、菊田作品の東宝現代劇・団五郎喜劇など、話題作上演の積み重ねによって貸館主体のホールから常設劇場のかたちになって行きました。
こうした基盤にたって40年3月、名古屋で最初のブロードウェイミュージカル「ノー・ストリングス」の上演に踏み切り、45年6月には、日本人としてはじめて、ブロードウェイでのミュージカルに主演した市川染五郎(現松本幸四郎)の帰国直後の凱旋公演「ラ・マンチャの男」が上演されました。ミュージカル公演としてはこの他にも47年8月に上演され、57年には、オーディション制による最初の名古屋製ミュージカルにまで発展した「ファンタスティックス」。54年〜元年まで圧倒的な人気を集め名古屋の年中行事となった「ショーガール」。平成4年本場ブロードウェイのキャスト、スタッフにて上演した「グランドホテル」など名古屋のミュージカル公演に大きな影響を残してきました。
また開館早々の頃から劇団民藝、文学座、俳優座による新劇へも接近。東京に先がけ「三人兄弟」(森雅之参加)、「才能とパトロン」(岡田嘉子帰国後初仕事)、「オセロ」(仲代達矢)、「黒蜥蜴」(美輪明宏)など10本近い新劇を名古屋で初演として行い、幾多の力作を商業劇場に登場させました。
また40年8月、東宝制作の「奇跡の人」は労連(新劇ファン会員)が初めて商業演劇に触れたわが国初の公演となりました。

また芝居だけではなく、映画の興行も昭和35年〜48年まで行われており、演劇本位の商業劇場で、長期間の映画ということで注目されておりましたが、とりわけ故黒澤明作品の連続上映興行に、監督自らが客席で対談講義に応じてくれたことは稀有なことでした。

名鉄ホールには旗揚げした劇団、公演も多くフランキー堺の「コメディ・フランキーズ」、伴淳三郎の「軽喜劇座」、花登筐主宰の「劇団喜劇」、石井ふく子主宰の「ストーンウェル」公演などが挙げられます。

平成19年秋からは、貸ホールとしての運営を開始。名古屋駅を降りて徒歩3分という立地条件などにより、お芝居・劇団公演・ミュージカル・コンサート・試写会・落語・講演会・イベントなど、幅広く上演・開催会場としてご利用いただいております。
また、ご来場者様にも、交通の便の良さと、百貨店の中にある劇場なのでお買物も楽しめると、多くのお客さまに親しまれております。

公演年鑑